時代の思想としてのフェニミズム

Ⅰ問題の所在

 東京新聞に掲載された『性暴力被害 世論が報道を「変わらせた」 <寄稿>ライター・小川たまかさん』は、意義ある評論であった。

 ひとつは、他の論者や視角を読者に提起している。

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 さらに小川たまかさんご自身が大切な問題提起をされている。

【 これまで、学校や職場での性差別なんてレア、性暴力被害に遭うなんてレア中のレア、だからニュースの重要度は低い―という意識が、マスコミの中にもあった。それが少しは変わってきたのではないかと思います。変わったのだとすれば、それは世論が「変わらせた」のだと私は思います。

 医大の女子受験生減点問題、#MeToo、元財務次官のセクハラ事件、週刊誌の「ヤレる女子大学生ランキング」、性犯罪の相次ぐ無罪判決、職場でのパンプス靴の強制をなくそうと訴える#KuToo、就活セクハラ、伊藤詩織さんの民事裁判での勝訴…。

 世論を受けて報道が変わる。今はこの流れがあると感じていますが、安心はできません。ほんの少し前、二〇〇〇年代にはジェンダー平等へのバックラッシュ(反動)があったからです。「言ってる内容はわかるけど言い方がちょっとね…」なんていう、感情的な「トーンポリシング」には、その都度抗っていきたい。

 昨年末の伊藤詩織さんの民事裁判の勝訴は本当にホッとしました。裁判は控訴審で続くとはいえ、「良かった」と感想を漏らす人の多さに驚きました。】

高まる「#MeToo」 社会の転換点に  詩織さんから勇気もらった女性たち「もう黙らない」

(出田阿生)

【 二〇一七年の伊藤さんの告発会見は、大勢の被害者を勇気づけてきた。翌一八年、テレビ朝日の女性社員が、当時の財務事務次官のセクハラを告発。東京都内では若者が性暴力に「私たちは黙らない」と訴える街頭行動を始めた。性的対象として女子大学生をランク付けする雑誌の特集に、当事者の大学生らが編集部に抗議し、対話を求めた。

 今年三月に相次いだ性犯罪事件を巡る無罪判決が、さらに世論を動かした。嫌がる娘をレイプした実父が無罪となるなど、被害実態を反映しない司法への抗議から、四月に東京駅前で花を持って被害者に思いを寄せるフラワーデモがスタート。毎月一度のデモは各地に広がり、今月は全国の三十一都市で開催された。デモでは一般の参加者がマイクを握り、震える声で被害体験を告白している。】

性犯罪、刑法見直し要望 法務省に市民団体 無罪相次ぎ「問題」

【 刑法は二〇一七年、性犯罪の厳罰化などを目的に百十年ぶりに改正されたが、今年三月には実の娘をレイプした父親が無罪となるなど、性暴力事件の無罪判決が相次いだ。被害者が激しく抵抗できないと加害者を罪に問えない「暴行・脅迫要件」が改正後も残ることなどが問題とされた。

 改正時の「三年後の見直しを検討する」との付則に基づき、法務省は昨年から被害者への聞き取り調査を実施しているが、見直しに必要な検討会の設置には、いまだに明言がない。この日は東京都内で集会と記者会見も開かれ、被害当事者団体「スプリング」の山本潤さんは「性暴力に抗議するフラワーデモが全国で開催され、改正を求める声が社会に広がっている」と強調。

 「性暴力禁止法をつくろうネットワーク」の周藤由美子共同代表は「前回の改正では、検討会のメンバー十二人のうち、被害に詳しい専門家は二人だけ。当事者や専門家を一定割合入れる必要がある」と指摘した。】

勇気ある声が、次の声を呼ぶ 性暴力被害「フラワーデモ」のうねり 〈寄稿〉北原みのりさん

【 この間、記者と話す機会も多かった。一連の無罪報道の口火を切った福岡地裁久留米支部判決を速報したのは、毎日新聞の女性記者だ。同じく男性社会であるマスコミでは多くの女性記者が日常的なセクハラにあえぎ、当事者として性暴力の問題にかかわろうとしていた。性暴力の無罪判決自体が最近増えたのかどうか、正確には分からない。だが少なくとも「これは報道すべき事実」と考えた記者がいたから、私たちは司法の現実を知ったのだ。

 私たちは性暴力被害者に、ずっと絶望を強いてきた。だが今や、勇気を出して上げられた声は、次の声を呼ぶのだと実感している。まずは刑法で、同意がない性行為は犯罪だと定める必要がある。今はフラワーデモの当面の目標を、来年が見直し時期となっている刑法改正とし、しばらくは続けていこうと思うも痛みを感じている人の声に寄り添い、その声が社会を変えていけると信じたい。】

【私見】

 民衆派フォトジャーナリストが、セクハラで今までの信頼を一気に失ってしまった。1970年代に「ウーマンリブ」運動が起きた頃に、私はベーベルの『婦人論』を選択する側にいた。流行するモードとしての社会運動と根本的な解決を求めて噴出する運動とを私たちは見分けるべきである。

 だが、日本でも世界中にも席倦している運動は、人類史のいつからか、女性が不当な扱いと暴力の差別や偏見を、克服しようとする重みを備えている。

 さらに、思想や公共性の次元ではなく、日常と暮らしの中から女性が不合理な差別を克服する切羽詰まった状況から抵抗する普段着の現実的な日常的な闘いの表現だと考える。

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